プロフィール

プロフィール

中国語学習の記録を中心としたプログを通じて自分の失敗・成功の体験を示すことで共感していだければ幸いです。

かん吉さんのプロフィールを参考にプロフィールを述べたいと思います。

略歴

しんたいらん 

1969年生まれ。水瓶座、O型。神奈川県藤沢市出身。藤沢市に在住。

妻、長男(2008年生まれ)の3人家族

明治大学政治経済学部経済学科卒業。

1993年 某流通メーカー入社。

1997年 某電線メーカー入社。入社1ヶ月後にシンガポール駐在。現地法人ゼネラル・マネージャーとして営業活動従事。

2003年 某コネクタメーカー入社。入社1ヶ月後に再びシンガポール駐在。現地法人営業マネージャーとして従事。

2014年 通算約16年のシンガポール駐在を終え、日本帰任。

現在 某コネクタメーカー・マーケティン課在籍中。

ソーシャルメディア

X(旧Twitter)

Note

ミッション

・ミッション(使命)

語学学習を通じ社会に貢献し、家族と人生を豊かにするための方法をチャレンジして確立すること

・バリュー(価値)

質実剛健、楽しいから苦しい、苦しいから楽しい境地の実践

・ビジョン(願望)

人生100年時代と言われている中で、会社勤めだけでなく自らの意思で稼ぐ力を身につけ自分自身と家族の為に死ぬまで自分の意思で働き続けたい。

過去の経歴

学生時代:幼少期は鉄道オタクでした。

・生まれは神奈川県藤沢市。3人兄妹の5人家族の長男の家で育ちました。実家はお寿司屋さん。父親自身が開業し、およそ50年で父親の代で閉店しました。店は両親、叔父さんそして板前さんで切り盛りしておりましたが、物心がついた頃から”店は継がない”と固く決心しておりました。叔父さんの影響から阪神タイガースと鉄道が好きでした。

・小学生時代

野球と鉄道に夢中になっておりました。野球は地元の少年野球に小学4年生から入部しました。背番号が学年が上がるにつれて4年生 40番 → 5年生 27番 → 6年生 6番と上がり、今でのこの番号は気になります。野球はこれ以上は上手くなれないと自分自身で悟り、部活動での活動は小学生で終わりました。

野球と同時に鉄道にも興味がありました。いろいろジャンルはありますが撮り鉄と乗り鉄です。当時は東北・上越新幹線が開通前でしたので上野駅にさまざまな特急電車が入線し、よく写真を取りに行ってました。乗り鉄の方は時間があれば東京近郊区間の一筆書き切符で一日中ただひたすら電車に乗っていた少年でした。

・中学生時代

部活としての野球は小学生で終わり、野球の次に興味があった卓球部に入部しました。小学校のクラブ活動で顧問から褒められたのもありますが、自分でも上手くなりたいと思い入部しました。実績は市民大会1・2回戦止まりで、これといった成績ではありませんでした。

鉄道好きは中学生でも続いておりました。ただ毎週、鉄道写真を撮るということはありませんでした。その頃は乗り鉄オンリーでした。中学2年生の夏休みに1週間、「18きっぷ」を使って全て鈍行列車での東北旅行が初めて一人旅をしました。泊まりは全てユースホステル、朝から晩まで鈍行列車に乗る旅行で、お昼は駅の立ち食い蕎麦を食べるが基本でした。一人旅の醍醐味というか嬉しさを味わったのを今でも忘れません。

中学3年の卒業間際の春休みには2週間の九州の一人旅をしました。九州旅行は九州地方内の特急は急行が自由に乗れる「周遊券」を使った旅行でした。九州から東京への戻りは長崎→東京行きの寝台特急・さくらのB寝台車で帰ってきました。寝台特急は食堂車が付いており、食堂車で”焼肉定食”を食べたのが良い思い出です。

・高校時代

地元の県立高校へ入学しました。第1志望の高校ではありませんでしたが、高校は県立高校であれば何処でも良いという感じでした。大学へ行くための通過点ぐらいしか思っておりませんでした。高校でも卓球部に所属しました。チームメートが結構上手く、団体戦・県大会ベスト32が最高成績でした。勉強は全くせず、あっという間に過ぎた3年間でした。

・大学生時代

1浪して明治大学に入学しました。高校同様、第1志望の学校ではありませんでしたが、2浪する気力も親に頼る気持ちも無く、入学しました。失意の中、新入生のサークル勧誘で体育会系の空手部に誘われ、入部することになりました。鉄道好きもあって大学生になったらユースホステス研究会みたいな超文化系のサークルに入部したいと漠然と思っておりました。

高校時代にカツアゲ未遂に2回あり、未遂に終わりましたが本当に嫌な気持ちになりました。また社会人になって会話の中で、運動何やってましたか?の問いに卓球部でした と言うのが嫌な自分が居ました。カツアゲ未遂に遭った時、何もできない自分が本当に嫌でした。この二つの嫌な気持ちと少しでも強くなりたいという思いが湧いて入部してしまいました。体育会系だけあって4年の卒業時にはほとんどの部員が辞めてしまい、同期は自分含めて8人でした。本当に嫌で嫌で辞めたかったですが、辞めずに続けられたのは同期の存在です。続けることが全て良いとは思いませんが、空手部に入部にして継続することの重要性を知ることができ、語学学習に強い影響を現在でも受けております。武道を通じて松本道弘氏に感銘を受け、英語を通じて社会に貢献したい気持ちが芽生えました。

社会人時代(20代〜40代):海外駐在を目指して

・社会人1社目

浪人、大学生の時に英語を話せるようになりたい、英語を使って仕事をしたい気持ちがあり、将来的に海外で働ける職場がある流通メーカー(スーパーマーケット)に就職しました。配属先は精肉部。スーパーの店舗での精肉販売員です。当時、年間就業時間2000時間、週休3日を謳った企業でそれも魅力の一つで入社しました。しかし、海外での仕事のチャンスは薄いことが分かり、見切りをつけて退職しました。

・社会人2社目(第1回目シンガポール駐在)

海外で働きたい気持ちは常にあり、営業の経験もありませんでしたが、熱意だけでシンガポール駐在要員で電線メーカーに入社しました。社内にシンガポール支社の後任が居ないとの事で外部から人を呼んで後任を探していたところ、縁があって入社しました。入社後1ヶ月後にはシンガポールに赴任しました。シンガポール支店は所長の日本人1名と現地ローカルスタッフ1名の合計2名体制でした。その所長の後任で現地で2週間弱の引き継ぎを経て現地に赴任しました。肩書きは所長でしたが、業務内容は自社製品の販売促進と顧客管理の営業です。主に日系企業向けへの営業でしたが、赴任期間の約5年はほぼ全て不具合対応もしくは納期対応に追われ、業務ではその記憶しかありません。6年の在籍で楽しい事も辛いこともいろいろ経験しましたが、何処の馬の骨共分からない者を採用し、業務だけでなくプライベートで海外生活の機会をくれたのは感謝しかありません。

・社会人3社目(第2回目シンガポール駐在)

第1回目のシンガポール駐在は失意のうちに帰任し、再度機会があれば海外で仕事をしたい希望がありました。現在の会社がシンガポール支店で日本人増員との事で、採用され入社しました。扱っている製品は電線ではありませんが、対象となる顧客は電線メーカーと重なる部分があり、シンガポールでの駐在経験を買って頂き採用されました。第1回目の赴任は所長(General Manager)として日本人1名と現地ローカルスタッフで切り盛りする立場で、現地で直接指示を受ける立場ではありませんでした。良くも悪くも決裁権がりました。第2回目のシンガポール駐在は上司に日本人が居て、その下で働く立場でしたので、1回目と大分勝ってが違いました。1回目より業務責任の度合いは少なくなりましたが、結構な頻度で意見の食い違いがありました。基本的な業務は第1回目と同じで、営業活動はスムーズに馴染みました。最初6年間は日本人の上司、最後の5年間はシンガポール人の上司の下で業務しました。

プライベートではゴルフに熱中しました。第1回目赴任の時に顧客主催の150名程参加したコンペでブービー賞(ビリから2番目)を取ってしまい、次のコンペでは優勝してやる!という気持ちになり練習に励みました。元々ゴルフ自体は好きでは無かったのでスコア100を切ったらゴルフをキッパリ辞めようと考えておりましたが、スコア100を切った時には既にどっぷりとハマっておりました。シンガポール島内のゴルフ場は高いので近隣のマレーシアで週末のほとんどはゴルフをしておりました。ゴルフの回数は通算250回程で、ベストスコアは88です。一生分のゴルフをしました。

嫁は幸か不幸か日本人です。日本で知り合い2006年に結婚しました。2008年に長男が生まれ、家族3人で2014年までシンガポールに住んでおりました。駐在始めの頃は海外駐在の特権ではありませんが、コンドミニアムを用意してもらって、駐在生活を謳歌しておりました。2010年頃から物価の上昇が給与に追いつかないと感じるようになり、実際に駐在している意義というかメリットが見出せなくなりました。そのような感じでしたので会社から帰任の話を受けた時、帰りたくないけと帰りたい というのが本音でした。

社会人時代(現在): 次のステップに挑戦中

・国内事業所

シンガポールから帰任後、国内営業を経て現在マーケティング課に属しております。役職がある立場では無いため、年齢的に最前線で営業や顧客と折衝する立場ではありません。むしろ彼らをサポートする立場での業務です。正直、所属企業での更なる飛躍は望めませんので、職場を離れた事態を考慮しながら日々業務及び活動しております。

今の目標は英語と中国語を駆使してサバイブしていく事です。今の職場では英語は日常的に使用しておりますが、中国語は必要とされておりません。直近の目標として中国語のレベルを自分の英語のレベルまで上げる事です。英語も日々ブラッシュアップしているのでそれは現実的に不可能かもしれませんが、中国語の伸び代は英語のそれと比較して無限大です。今の職場を離れても稼げる力をつける努力をしております。その過程をこのブログで表現出来ればと思っております。

取得した資格

中国語検定3級 2019年3月合格

TOEIC Listening&Reading Test 860点 2001年

紛失し写真ありません。

通訳案内士試験(英語) 2017年12月合格

一般旅行業務取扱主任者試験 1993年12月合格

宅地建物取引主任者試験 2013年12月合格

日商簿記検定2級 2017年6月合格

第一種衛生管理者試験 2018年12月合格

 

調理師免許 1989年12月取得

よろしくお願いします。